めがねさんの百合ごはん雑記

百合とごはんと日常について。

映画版ハーモニーのパンフレット読んだり、設定を妄想したりした(6000字あります)


(ちなみに長い方の感想はこちらです。)
http://i0-0i.hateblo.jp/entry/20151115/1447597904

映画版の第一回の視聴を終えて、あまりに大興奮していたが故にパンフを買い忘れ、翌日パンフだけ買いに映画館に行くというていたらくであった。
パンフを読んでまたいくつか書き残しておきたいことが生じたので、備忘のために書いておく。あと、たくさん妄想したので放流する。

アートワーク
・赤い血管が浮き出たようなビル群、静止画であらためて見てみると、すごく卑猥だと思った。勃起したちんこみたいだ(直球)

なかむら監督について
AKIRA美術監督だということを知って、ああどうりで気持ち悪さと居心地の悪さがあるはずだと思った。確かに言われてみると、ヌァザのいた川は金田がバイクで疾走した川であったり、薄ピンクの町並みの色調はAKIRA発動後の、なんかどろどろの肉塊がうごめいていた世界であるような、そんな気がしてくる。
・性的虐待を受けていたミァハの生涯を考えると確かに自分の性や肉体のあり方について確認したいというか、強いこだわりを持っているという考察の仕方もあると思った。後述する。

マイケル監督について
・長編二作目がハーモニーというのは荷が重かったかもしれないとは思いつつ、鉄コン筋クリートはすげーよかったので、これからもガンバってほしいと思いました。

各キャストインタビュー
・トァンについて。透明な存在というのは、はっとした。そう言われてみるとそうかもしれない。
・ミァハについて。暗さがあるというのはそうかもしれない。でもそもそもたぶん、この声質のヒトをミァハに持ってくるキャスティングの発想がすごいのだと思う。
・すざきさん。いつ世界が滅びても大丈夫なように、大事なものをポシェットに入れて抱き抱えて寝る子供時代とかかわいすぎか……。
・オスカーおばさん。トァンを見ていると昔の自分のようで心配してしまう保健室の先生というのがすごく百合ツボを刺激された。

以下、考察というか曲解というか妄想というか。
1。本を読んでいたのは誰か。
前回、力の入った方の感想で述べたように、最後にいたのはキアンだと思っていたのだけれど、なかむら監督のコメントによればどうやらそうじゃないらしいというのを見てがっくしというか。まあでも一回見ただけじゃわかんないよね……。
トァンたちの物語を読んでいたのが無名の十五歳の少女だというのは、うーん、どうなんだろうなー。わかんないなー。それはまあそうかもしれないけどなー、せめてキアンの子供とか、キアンの幽霊だとか……。
なんかもう完全に「こうだったらよかった」にしかならないあたり、わたしの脳内にしか存在しないハーモニーしか見ていなかった感がすごい。
ただ、ふっと思ったのが、「本を手に取って読んでいる」という動作ではなくて、「いすに座って眼の前のモノリスをみている」という動作にしていることで、少なくともスクリーンの前に座っている俺らとかぶせる意図はあったんじゃないかなあと。
いや、だからこそわたし、とても悲しいことにもう十五歳の少女じゃないので(憤怒)、大人になったキアンが読んでいる方が感情移入しやすいっていう話なんですけども。完全にこれはもう、どうやったらわたしが楽しいかというだけの話なんですね、はい。すいませんでした。

2。ミァハと身体性
やたらとレズ描写が多い映画になっていることの意味について考えてみようとする。なかむら監督の話と関連して。
ミァハが八歳になって日本に来るまでの性的虐待というのがどういう作用を少女にもたらすのかっていうのを考えてみたわけなんですが、何歳でさらわれてきて、何年間虐待にあったのかはさっぱりわかりませんが、少なくとも八歳の少女に突き入れるってのは尋常の暴力じゃないというか、それ、もはや馬とかウシに入れた方が気持ちいいんじゃないのっていうレベルだわな、と思いました。いや、ヒトガタをしていることが重要なんだったらそれはそれですが。八歳じゃないとダメな性癖のロシア兵だったのか、それとも他に女がいなかったのかはわかりませんが、想像を越えている。(でもたぶん現実にもあるんだろうなとはうっすら思う。)
銃口を口にくわえさせられて何度も突かれるということ、自らの意志とは関係なく肉体を痛めつけられるということ。普通は苦痛があるとそれから逃避するために二重人格とかになりそうなものだけれど、ミァハの場合は個や意識が生まれたというのがなかなか想像しがたい。
それは少数民族が持っていた先天的な疑似ハーモニーシステムがその場所では働かなかったことに起因するのではないかという仮説を唱えてみる。
誘拐されてきた先では意識を共有する他の少数民族が周りにいなかったので、完全にセパレートな状態になっていると仮定したときに、この少数民族はどのような振る舞いをしたのだろうか。
性的な状況を「プライベートな」状況と呼ぶ未来の習慣と同じように、性交渉中というのはヒトという生き物にとって非常に無防備で脆弱な状況であり、そのため安全が確保されていなければならない。従って「プライベートな」状況というのは、限りなくスタンドアローンに近く、セキュアでなければならない。
少なくともミァハと疑似ハーモニーシステムを介してつながることができる相手、ミァハを守ってくれる相手というのはいなかった。ミァハはそのときに本当の孤独な状況であったはず。唯一であるハードウェアとしての肉体が完全に孤立したとき、その内面も個を生じたということなのではないか。
そしてそのとき、徹底的に自分の身体というものが他人の思うがままにされて、筆舌につくしがたい苦痛を与えられた。
ミァハは多くの初めてを経験する。
初めての「自分」という個、初めての「自分の」身体、そして初めて他者との通信拒絶状態というもの。初めての非合理や理不尽。
相手の意図がわからないまま、相手の言う通りに動かなければならず、しかも言う通りにしてもしなくても殴られる、という理不尽な状況。
相手のことが理解出来ないという状況それ自体が初めてであったはずだ

それを理解したいという欲求があったのではないか。
自分が理不尽に振る舞った結果、相手が戸惑う。

まるでロシア兵がミァハにしたのと同じことを、ミァハがトァンにしてみてもいいのかもしれない。
もし日本で銃を手に入れる方法があったなら、トァンに突きつけていたかもしれない。
突き入れることが可能な性器がついていたら突き入れていたかもしれない。

また、こうも考えられる。
伊藤計劃トリビュートの一編 伏見 完の「仮想の在処」にこのようなセリフがある。
(余談だけどこの短編、ほんのり百合で、すごいよかったです。下記のセリフは男の子のセリフだけど、メインは姉妹の話です)

「剣道をやっていると、竹刀が自分の体の延長みたいに思えてくることがある。そういう時、ぼくは必ず思った。ぼくのこの体も、やっぱり別の誰かの延長じゃないか、って。……たとえば、父の。(中略)父は『正しい剣道』をするための『正しい息子』が欲しくて、その通りにした。ぼくは父が振るった竹刀なんだ。父がそう思う通りに作り、動かした体だ。だからこれは、ぼくの体じゃない(中略)それがなんであれ、思った通りに動かせるなら、それはもう自分の体だろ?」


ミァハが個を持っていなかったとき、体はあったが、意識はなかった。
ミァハが個を持ち始めたとき、意識はあったが、自分の意のままになる体はなかった。他者に蹂躙され、自らの意志の元には動かせない体は、たとえ自分の意志がその体に紐付いていたとしても、自分の体とは思えないのではないか。(虐待された子供の多くに、離人症、つまり自分のことであるはずなのにまるで他人事のように感じられる症状が伴うように?)

ミァハが日本に来てから、はじめてミァハは自分の意識と自分の体というものを得ることが出来た。そして前述のように、「わたしの体」と呼べるものはハードウェアとしての自分の肉体だけにとどまらない。自分が使う道具、自分の意のままに沿う他人、そういうものまで含めて、自分の体と呼ぶことが出来る。
ミァハの戸籍上の両親は、ミァハに優しく接しただろう。けれど彼女たちは凡人だった。ミァハの賢さの前には道具も同然であったに違いない。
次に学校だ。ミァハは、トァンやキアンのような特別な存在探していたのだという。それはどういうことか。
ミァハは自分の体と他人の体の境界線を探っていたのではないか。つまり、意のままにならない可能性がある他人を探していた。それがトァンとキアンだったと考えることが出来る。
完全に体制側の人間では道具にならない。しかしただの凡人では簡単に道具になってしまう。そこの境界線上にいたのがキアンとトァンだったのではないか。
トァンもキアンも彼女の言葉を聞いて心酔していた。けれども結果的にはミァハの道具たりえなかった。同志ではあったし、サポーターでもあったけれど、道具ではなかったというところにポイントがあるのかもしれない。
その上で、ミァハはトァンと「プライベート」なことをしようとする。しかもキアンの眼の前で。
肉体によって干渉し、誘惑し、侵略する。それによってトァンは陥落するか否か。自分の身体の延長上に他人の体を位置づけることが出来るか否か

赤子が指しゃぶりをするのは、どこからどこまでが自分の体なのかを確かめる行為なのだという。ミァハがトァンに口づけをしていたのは、自らの体の領域を確認する行為だったのかもしれない。

3。過渡期におけるWatch Meと遺伝子における平等性と社会
映画の上ではナノマシンの存在がまるで無いように感じられたが、パンフのラフスケッチには一応記述があった。しかしあまり言及されていなかったように感じたのでどこまで設定上生き延びていたのかはわからない。
Watch Meによって個人の遺伝子情報がデータとして存在しているにも関わらず個人認証が静脈認証であることについてもう少し妄想したいと思う。
前の長い感想において、私はこう書いた。

「つまり個体の識別は個人の遺伝情報(どのように生まれたか)によってのみ行われるのではなくて、外部の表象(どんな静脈、どんな指先、どんな指紋、どんな風に組織を形作ったか)までを含めて個人なのだ。」

ここからもう少し妄想を膨らませる。ついったの方でこの世界におけるLGBTはどんなあり方をしているのかについて考えたことをメモした。

「ハーモニー世界にLGBTがいたらむしろ卵子バンク精子バンクに登録して少しでも社会貢献しいようとするんじゃないかな。社会評価下げないためにも」
「曲がりなりにも公共の福祉と称するならこれまでの社会科学的知見から算出して決して無視できない割合で存在するセクシャルマイノリティ福祉を考慮せず社会設計するはずがないので子供作りたくても作れない夫婦のために卵子精子バンクに登録するLGBTが美しいモデルケースとして教科書に載る」

だんだん「ぼくのかんがえたさいきょうのはーもにー」になりつつあるが気にしてはいけない。
個人の認証について遺伝子情報ではなく静脈認証を用いることの意味が、個人の遺伝子の出所、つまり誰が遺伝上の父親であり母親であるかについてが、実際の家族構成と食い違っている状況が一般的なのだとしたら、というIFを考えてみる。
たとえば、壮年の男女がひとりずつおり、その間にひとりの小さな子供がいるとする。大変仲むつまじい家族として振る舞っているとする。家族でお買い物だレストランだ、わあいお子さまランチ~、よおしパパなんでも買っちゃうぞー、ママもたまにはぜいたくしたいもの、きゃっきゃうふふ、みたいな状況。
さて、クレジットカードでお買い物をするとなると、個人認証をする必要が出てくる。もしこれが21世紀初頭の標準的な家族だとしたらいちいち子供は自分の出自を考え込まなくてすむだろう。だがハーモニー世界では、自分の社会的貢献度を高めるために様々な努力をする。子供は養子かもしれないし、不妊治療(あるいは年を取ってからの再婚など)の一環としてどこかの精子卵子バンクからの提供を受けて出来た子供かもしれない。そもそも外見上男性または女性に見える片方あるいは両方はFtMまたはMtFかもしれない。そういう様々な繊細な由来を決済するごとに詳らかにする遺伝子情報は公共の福祉のあり方としてふさわしいものと言えるだろうか。
個人の遺伝情報は本当はたいした問題ではない。堂々と胸を張って生きて、社会貢献すればよい。
だから、遺伝子情報は必ずしも個人の認証たりえない。どのように生まれたか(=遺伝子情報)が問題なのではなく、どのように成長してきたか(静脈認証)が問題なのではないだろうか。

まあそれでも遺伝病関連でのリスク評価なんかはある程度は公開されるんだろうけどな。

ハーモニー世界における貧困のあり方について考える。
個人の教育深度は社会的評価につながるのか。もちろんつながる。本人が努力することは前提だけれど、ボランティアにおける貢献度にせよ、仕事における貢献度にせよ、教育によって高められた個人の能力は高ければ高い程、合理的に社会を改善するのに役に立つはずだ。
この時の改善というのは、社会の不平等をただす方向にいくはずだ。つまりは「困ったひとがいたら助けてあげなさい」「苦しんでいるヒトがいたら相談にのってあげなさい」っということだ。
だから可能な限り富と幸福の再分配が行われる一方で、悪しき社会主義に陥ることを防ぐために社会全体の効率を上げるための仕掛けが必要になる。それは恐怖と一対でなければならない。たぶんそれは枠からはずれることに対する恐怖。社会の枠から外れると、途端にひどいことになるという薄皮一枚の恐怖感。それこそがトァンが感じていた息苦しさなのだろう。
ある程度の苦しさ、ある程度の困難までは、周りの人々は救ってくれる。助けられる範囲ならば。
だが、苦しさがある臨界点を突破したとたんに、周りの人々が一斉にそっぽを向き始める。それがつまり「戦争の話は聞きたくない」ということなのだろう。
以前、Twitterで回ってきた、「なぜ痴漢被害を受けた話をすると心ない罵倒が始まるのか」という話にも似ている。ヒトは他人の悲しい話や不合理な不幸の話を聞くと共感してしまって、そのストレスを解決するための手段として、因果応報だったのではないか、という仮説を取りたがるという話だった気がする(うろおぼえなのであとでソースはる)
他人の同情や親切は無限ではない。それは社会リソースなので無料ではなく、明確に「貸し」だ。社会的弱者は確かに助けてもらえる。だが、それは明確に社会的評価として数値化され、ジャッジされる。社会に寄りかかってばかりの存在は厳しく淘汰されるのではないか。それをこの世界では「貧困」と定義しているのではないか。
だからこそ、何かのセラピーを受けたら出来るだけ早く立ち直らなければならない。回復出来ない傷というものはあってはならない、ということになる。もしもそれを生じてしまったら、秘匿しないとずっと社会的リソースを食い続けることになるのではないか。

頭使いすぎたのでアホな妄想とかもしようと思ったけど、6000文字こえてるからまとまらないままとりあえず投げる。ぽーい。