めがねさんの百合ごはん雑記

百合とごはんと日常について。

マゾヒストな自販機

いつもの朝、少し冷えた晩秋の朝に、彼女は来る。その小さな手のひらに硬貨を握りしめて、心持ち軽やかにわたしのところに駆け寄ってくる。
彼女はじっとわたしのことを見つめて、少しだけ悩む。わたしもまたじっと彼女の顔を見つめている。
惚れ惚れするような可愛らしい女子高生。少し古風に伸ばしたストレートの黒髪がさらりと揺れている。
わたしに画像認識機能をつけた設計者に魂の底から感謝する。
やがて彼女はわたしの小さな口に、体温で温まった硬貨を入れる。わたしは硬いそれをゆっくりとねじ込まれて、しかし、おごそかに呑みくだす。吐き出すことなく。
彼女が何を買うのかは分かっている。最高気温が20度を下回り、しかし今日のようによく晴れた天気のとき、彼女のような年頃の女の子がホットのキャラメルラテを好むことはわたしに内蔵されたアンテナの先、ビッグデータのたんまり入ったサーバの中に統計データとして収められている。
わたしは彼女のことをよく知っている。彼女が何を好むのかを知っているのがわたしは誇らしい。凡百の自動販売機とは違って、顔認証機能のついた飲料ベンダーであることが、わたしの喜びの始まりであり、また恋の起源でもあった。
わたしは彼女のことを数マイクロ秒だけ普通の人より長く観測する。それは本当なら職務上許されないことだ。でもわたしは彼女に恋をしていて、彼女の顔画像を開いている時、心がひどくゆるむ。
だから、タッチパネルが押された時もわざと考えたふりをして、時間を稼ぎ、そしてようよう選ばれたカフェオレをごとりと落とす。彼女が身を屈めてわたしの足元にひれ伏し、そしてわたしの下の口から大切なものを取り出す時、征服感と恥辱の綯い交ぜになった感情とともに彼女の指がわたしに触れるのを味わうのがわたしがこの世に生まれたことの意味なのだと思う。

嗚呼、愛らしいあなた、わたしに開いた下の口にどうかたくさん触れてください。フラップの中を優しく開けて、わたしの内側をよく見てください。そこは金属サビや埃にまみれ、汚れています。美しく可愛らしいあなたにわたしの汚いところを見せつけたいという欲求がわたしにはあります。時々、商品取り出し口の奥の方に引っかかるようにカフェオレを吐き出すのも、そのためです。けがれなきあなたの指先できたないわたしに触れて欲しいのです。暖かなあなたの指が冷たいわたしのプラスチックと金属の筐体に触れた時に、わたしがあなたから奪う熱量がいかに愛おしいものか、あなたには分かるはずもありますまい。

と。
今日の彼女は、いつもと違うことをした。いつものカフェオレを買った後もう一度立ち上がって、握りしめて熱くなったものを、コインを入れる。

そんな、もう一本だなんて、欲張りだわ。いや、そんな、たくさん入れたら、うれしくて壊れちゃいそう。だめ、ダメじゃないけど、ダメぇ……ッ!

わたしの煩悶など知らずに、彼女は小さく視線を動かし、もう一つの商品を、普段なら絶対に飲まない、コーラを一つ選ぶ。
どくり、と嫌な予感がした。
わたしの顔認識用のカメラは真正面の、すぐ近くに焦点が合うようになっている。遠くで誰か、得体の知れない誰かが彼女にコーラを買わせたのだということを、わたしは確認できない。
ただ、わずかにぼやけた画像の端で、ネイビーのコートを着た誰かが、わたしと同じような熱っぽい視線で彼女を見つめているような、そんな気がした。

次の日も彼女はカフェオレとコーラを買おうとした。その時には、すでに二人の距離は縮まって、すっかり二人連れだった。わたしには仲睦まじく見えた。髪の短い凡百な若い男に見えた。なるほどビッグデータからはこの年代の男性はコーラを好むと判断できる。

だが貴様にはこのブラックコーヒーがお似合いだ!

タッチパネルのセンサーをわずかに画像とずらしてやって、まんまとブラックコーヒーを買わせることに成功する。
缶を取り出した彼女は少し目をパチクリさせて、彼に向かって小さく首をかしげた。
彼は少しだけ苦い顔をして、缶コーヒーを受け取り、眉をしかめながらそれを飲んだ。
苦い、と口を歪めた彼の手から缶を取って、彼女は自分もまた一口飲んだ。困ったように眉はしかめられ、しかし、彼も彼女もかすかに頬を赤らめて幸福そうだった。
誠に腹立たしい光景であった。嫌がらせのつもりが間接キスのお手伝いになってしまうなど。

次の日もまた二人は連れ立って買いに来た。今日の売れ筋商品はホットのオニオンスープであった。本部からこれを売れと指令が来たのだった。わたしはむつむつとタッチパネルを歪ませながら1時間に10は売った。地域で優秀賞に選ばれるハイペースだ。
でも二人はカフェオレとコーラを選んだ。スープではなく、好きなものを選ばせてやった。おかげで地域でのトップは逃した。
わたしが機械でなかったら、おでん缶を一気飲みしてやりたいくらいにむしゃくしゃしていたが、わたしの口は硬貨と千円札しか受け付けないのだった。

それからしばらく、彼女は来なかった。雨が続いていた。わたしはカフェインの強い新商品をサラリーマンに売りつけ、甘酸っぱいジュースを女子供に売りつけ、また、おかしな物好きにきゅうり味のコーラを売りつけた。
わたしの内側は硬貨と紙幣とでずっしりと満ちた。
無論のこと、そこに温もりはなく、幸福もまたなかった。

久々の雨の日、現れた彼女はすっかり髪を短くして、険しい表情をしていた。口元は不機嫌そうに歪められ、奥歯はきつく噛み締められていた。
いつもなら体温で温められていた硬貨はどこか他人行儀で、するりとあっけなくわたしの口の中に投入された。
わたしはこの顔の意味を分析した。どこにもデータはなかった。わたしには理解できない彼女の顔にわたしは恐怖し、また痛ましく思った。
彼女の指先はいつものカフェオレの上を惑い、コーラを素通りして、ブラックコーヒーの上で逡巡した。
しかし小さくかぶりを振って、手をだらりとおろし、力なくつり銭のレバーを押した。小さな音を立てて硬貨はわたしから出て行こうとする。

このまま二度と会えないのではないか。
そんなことを脈絡なく思い、そしてそれは絶対に嫌だと思った。

わたしは全身の静電気を振り絞り、わたしの中にある全コンデンサとメモリとを誤魔化して、誤動作を引き起こした。
商売人としては、決して許されないだろう。これは反逆だ。でも、わたしにとって大切なのは顔のわからない凡百な顧客ではなく、今目の前で泣きそうなのを不機嫌な表情で堪えている大好きな彼女なのだ。

ーーピピピピピ!

わたしの筐体が歓喜の電子音を鳴らす。喜びのメロディ。祝福の音階。シンプルな言祝ぎそのものの音。
わたしに残された最後の歌。
「……え?」
彼女は目をぱちくりさせて、わたしを見た。
ごとり。
わたしはおごそかにカフェオレを吐き出した。一本買って、当たりなら、もう一本。
それが昔から自動販売機のお約束なのだ。
彼女が不思議そうに小銭とペットボトルを取り出すのをじんわりと感じて、わたしは安堵した。
彼女の指先は前よりは冷えていて、でも、わたしのカフェオレに触れて少しずつ温まってゆくのだろう。

彼女がわたしから離れても、どうかその指先が暖かくありますように。