めがねさんの百合ごはん雑記

百合とごはんと日常について。

映画版ハーモニー本気で賞賛の感想(12000字あります)

(11/17:誤字を直しました。ごめんね、キアン)

(11/19  6000字ほど追記しました。)

http://i0-0i.hateblo.jp/entry/20151119/1447858909 

 

ハーモニーを見た。

クライマックスから映画が終わってエンドロールが終わるまで、私はどうしようもなく号泣していたのだった。
すばらしかった。
一言で言ってすばらしかった。
すばらしかったというのが陳腐にすぎるなら、こう言い換えてもいい。
――やっと、この物語について理解出来た。
それについて語ろうと思う。ネタバレと自分語りと百合妄想を大量に含みます。

知っているひとは知っているが、私は原作小説「ハーモニー」について二次創作(正しくは、東方神霊廟によるハーモニー形式の二次創作)をやったことがある。
ということは、原作小説を読んで、それなりに感銘を受けて、原作をそれなりに愛している側の人間だ。
けれどもその愛の形というのは、「百合」ジャンルを愛する者としての愛であって、本書に込められたテーマについて十分に理解していたわけではないことをここに告白する。

原作ハーモニーについての不満を少しだけここに改めて告白する。
(その瑕疵も含めて好きだ、というたぐいのものではないことをお詫びする)
1.ミァハ、トァン、キアンの「三人」ではなくトァンとミァハ「二人」だけの物語であること
→あまりにもキアンがみそっかすで、仲間外れで、平凡な馬鹿扱いで可哀想なのだ。過去には心中が失敗した要因であり、現在においても早々にカプレーゼの銀食器で死んでしまう。

2.トァンのメンタルが男らしすぎる印象があること
→名前の由来であるケルト神話においては、トァンはヌァザを殺す、父と息子の物語である。
父との関係に限らず、トァンとミァハの関係性においても、トァンは非常に少年的、男性的であり、百合というにはあまりにホモ的であるという印象を受けていること(個人の感想です)

3.特に最後のチェチェン近くにおいて、描写が不足している
→執筆体力的な問題なのか、原因はわからないが、息切れしている印象が否めなかった。とにかく状況がわからないし、どうしてそうなったのか、そこにはなにがあるのか、キャラクタたちはなにを考えたのか、読んでも今一つぴんとこなかった。


映画は、これらの瑕疵を見事に克服していた。順番に述べる。

1 キアンが見事だった
原作版のキアンはただのお馬鹿さんというか、なにも知らない子、という感じだった。陰も薄かった。すぐ退場するせいが大きい。
映画版は退場のタイミングこそ同じだけれど、いくつかの重要なセリフを担っている。

最初、地下鉄で羽田空港から墨田(都内)へ向かう地下鉄において、彼女はトァンの話を聞きたがる。


キアン「みんなトァンの話を聞きたいと思うよ」
トァン「誰も戦争の話なんて聞きたがらないと思うよ」

この会話が実はすごく重要。

クライマックスで、トァンはミァハと会話をする。

ミァハ「ここの壁にはたくさんの精液とたくさんの愛液と、血と、涙と、鼻水が染み込んでいる」
トァン「やめて」

ミァハが経てきた戦争の話、凄惨な話。それを聞きたがらないのはトァン自身だ。

また、キアンの視点での動きをトァンが追体験するのは、格超現実(オーグ)越しの映像を何度となくトァンが見るシーンであったり、キアンが聞いたミァハからの通話を通じて自殺を追体験するシーンであったりする。
トァンはミァハに憧れ、ミァハには絶対にかなわない、ミァハに強く引かれていたし、その一方で、あまりに普通の女の子であるキアンはトァンにとってはどうしても馬鹿にしてしまう存在というか、どう見ても特別にはなりえない存在であった。
けれども、生き残った存在であったキアンに眼の前で自殺されて、トァンは激しく動揺する。というのは、二人が死んで、一人が生き残る(自分だけが)ということになる。自分だけが取り残された、という構図。
 覚えておいてください。
 二人が先に行き、一人が取り残された、という構図を。
3という数字はあまりにも簡単に、1と2に分かれてしまう。たった一人とそれ以外、という構図なんです。
これは総数が2ではけしてあり得ない。2が分かれたならそれは1と1でしかなく、1と1の間にどちらが優位、どちらが劣位ということは区別しようがない。
これが3だと違う。1と2の間には必ず優劣がある。2こそが正義で社会で多数派になる。

作中での孤独な1は、それぞれ担い手が違う。
ある時はミァハだった。ミァハだけが過去に死んだ(ことになっていた)。
ある時はトァンだった。ミァハが実は生きていて、キアンが自殺したとき、おいて行かれたのはトァンだった。

そして最後に、それはキアンになった。ミァハがトァンと一緒に死んだから。

どういうことかというと、一番最後のシーンでETMLタグの書かれた石版?(あの旧型のiPod Shuffleみたいな形した白いやつね)の前に座っていたのがキアンだとわかった瞬間の、キアンの心情としては「また、わたしだけ」なのかもしれないが、もはや意識がないので、もう彼女がそれを感じることはないだろう。
そこから一気にヒキで世界全体が示され、最後で、学生時代の回想シーンを声だけで再生するのが、卑怯なほどに涙腺をついてくる。3人が一堂に会していられたのはあの瞬間だけだったのだと。取り返しのきかない一瞬の青春時代だったのだと。

キアンが二人のことを見ていた。この二人のことを見つめていた。優しく見守っていた。

学生時代にミァハとトァンがキスをするシーンがある。そのシーンでキアンはそれを見ている。
同じようにキアンはずっとこの二人の愛憎を見守っていたのだと考えるとすごく泣ける。学生時代もそうだろうし、学生時代には見られなかった「プライベートなこと」をもETML上では見たかもしれない(我々が映画の中で見たように)
特に、エンディングの歌「ghost of a smile」の歌詞は、亡霊の視点で見た歌だ。僕が死んだからって泣かないでください、というような。
そこに没入すると、すごく泣ける。
(思わずミァハ×キアンの二次創作を書きたくなったぐらいに頭の中でもう完全に物語が出来上がっていた。お話の中だとミァハはトァンとしか絡まなかったように思えるけど、本当はキアンとも出来てたと思うよ派です。映画版のミァハなら二股ぐらいする。むしろミァハは誰のことも愛してない感じがしてすごく良い。あいつ、ただのテロリストだと思います。これは後述)
もしも、オープニングの<これは、敗残者の物語>が、キアンの視点だったらと思うと、また泣いてしまう。
キアンは、一人だけ、負けて残ったのだ。ミァハに喜んでもらおうと思って勇気を出したのに。

っていう役回りを、キルラキルでマコ役をやった洲崎綾にやらせるっていうねー! ほんとにねー! 殺す気か! 死ぬぞ!(おれが)


余談だが、同じような、「凡人の悲しさ」のようなものを他のキャラクターでも感じることがあった。

「子供が親の想像力を越えてしまったら、親は子供になにがしてやれるというのですか」

ミァハのお母さんが言うセリフだが、非常に深いものがある。

あとカールおばさんがトァンに憤怒している最後の方のシーン。

カール「貴女の両肩に世界がかかっていると思いなさい」
トァン「ぶっちゃけ、世界とかどうでもいいです(意訳)」

 というやりとりの時のカールの顔が完全におかんだった。子供が親の想像力を越えてしまった瞬間、おいて行かれた側の人間なのだ。とても同情する。

 


2.トァンがちゃんと女の子だった
 ポイントは二つある。ミァハとの関係と父との関係。

 原作からの改変点として、ミァハとトァンの関係性が完全に付き合ってるね、これ、というような距離感の近さというか、キスとか手つなぎとか押し倒しとか、めっちゃ身体的接触が多かった。たぶん原作より圧倒的に多いんじゃないかな。少なくとも原作にはキスシーンはなかったと思うし。わりと脈絡なくちゅっちゅしてた。
百合好きにもいろいろいて、こういうのが多いと辟易してしまうタイプのひともいるし、ヒャッハーってなるひともいる。私は結構な割合で前者だったことがあるのだけれど、今回に限ってはなんか平気だった。このお話はそういうものなんだなー、ぐらいで。たぶん、前述の理由でキアンがみそっかすじゃなかったことが気持ち的なゆとりを持てたことに大きく影響していると思う。あと、ちゅっちゅは前半にかなり投入されていたせいもあるかも。
あとけっこう最初の方の謎のプールシーンがすごく絵的に???ってなるシーンで、水の中に入っても濡れた感じがぜんぜんしない作画というか、フィルタかけ忘れてない??大丈夫??みたいな感じだったので、逆に作画とか絵造りのところには期待しない、みたいな心構えが出来た。(←これは正直あんまり褒めてない。ごめん。作画はもうちょっと頑張った方がいいと思うけど、予算が少ない中頑張った感じはあるけど、まあそれでも、うん、という感じではあるけど、RWBYみたいなものだと思えばまあうん……(繰り返し)本来、ミニシアター系で上映すべき低予算映画だと思って見ると気持ちが安心です。今もうミニシアター系って映画館自体が減ってるしね)

トァンとの関係がきわめて肉感的というか恋愛そのものというか、ぶっちゃけレズそのものだったせいで、クライマックスシーンにおけるトァンの決断にすごく納得がいった。個として成り立っていないと、相手に対して抱くこの気持ちを保てないというか、恋愛って、個対個の関係性で初めて成り立つもので、ハーモニーシステムが起動したあとは、恋愛は成り立たないものだと思う。
あとね、前述の「戦争の話なんか誰も聞きたくない」理論においては、やっぱり「聞きたくない」って聞き手のエゴというか、自分が愛せるものしか愛したくない、っていうね。

原作でのトァンの行動は、基本的には「ミァハ殺すべしイヤーッ!!」ていう感じていうか「オマエだけは絶対に理想郷に生かせてやんねーよバーカ!!」みたいな殺し合いホモみたいな感じで「まあ、アイツ殺した後、やることねーから死ぬわー、システムキライだし」みたいな感じで、父やを殺したテロリスト・ミァハに対する殺意で殺した感じだったんだけど(その割には父やキアンに対する愛情がイマイチ感じられないというか、まあ、キアンに助けられ、父にかばわれて生き延びてるわりには自分が生きていることに感謝してる感じがしないのがすげー難点だと思うんだけど)。
映画版のトァンは恋愛脳というか、「自分が愛したトァンは個を持っている過去のミァハ(虐待も受けてないし、少数民族でもないし、ましてや理想郷のハーモニーシステムに取り込まれたわけでもない、他にはない魅力的な個性を持った、社会からちょっと浮いた存在であるところの)、学生時代のミァハをこそ愛していた、だから殺す。過去のままの貴女を愛したいから、とどめておくために殺す、という感じになっていたのがすごくよかった。身も蓋もない書き方をしすぎて、どこが魅力なのかが伝わりづらい書き方になってしまったのが惜しいところだけど、すごくここで泣いたのでした。
愛のために生きたり死んだりするって、すごく女っぽいなって思う。レズだけど。
あとミァハとトァンの関係性に肉感を求めないひとは、あらためて、どうしてミァハがわざわざ「わたしたちの子宮が」とか「わたしたちのあそこが」とかを連呼していたのかを今一度考えてみるといいのかもしれない。百合というのは、精神的なものを含みながらも、肉感的なものをも飲み込む概念なんだと思うんだ。
というのは結局ハーモニーシステムがインストールさせても我々の肉体というハードウェアは物理的にはスタンドアロンなわけで~~~とかいう話をしていくとどんどん話がそれていくので後に回す。

(書き忘れていたので追記。)

性的虐待を受けていたミァハがことさらに自分の自由意志に基づいて自分の性のあり方を強調したがる文脈での解釈をあとで考えた上で付け足すこと。(追記ここまで)


父との関係について。
特にヌァザとバイク二人乗りするシーンで、父の背中にぴったり頬を寄せて乗るところはすごく「娘」だった。息子ではああはならない。
川で再会したときの、父に捨てられた娘という感じの表情と、二人でコーヒーを飲みながら語らうシーンが特に娘と父、という感じがしていて良かった。
コーヒーの入れ方がすごく独身老年男子っぽいというか、あそこのシーン、カップがいっこしかないんだよね。たぶん、父の自分用のやつ。お客こないから。
鍋にコーヒーの粉と水いれて、ぐつぐつ煮て、しばらく静かにして粉を沈ませて、上澄みだけ飲むやつだよね、アレ。めっちゃ苦くて粉っぽい味するやつ。あの大ざっぱ感がすごいよかった。お客をもてなしたことのないヌァザが、十数年ぶりに娘を歓待する時のちゃんとしたやり方がわからない。不器用パパかわいい。
あと照明に頭ぶつけたあたりが、ほんと、あそこの部屋、お客さんこないんだよなーって。そういう位置に照明をぶら下げないよな、普通。

 

3。背景描写について
バグダットもチェチェンも行ったことがないからなんとなく想像の世界になるんだけど。
まず、未来の日本の情景について。
まずナノマシンが設定上なくなっていて、メディケアは外部装置になっていた。だから今の日本と比べてまだそれほど遠くない未来(2070年代)ということになっていた。胃腸で内服薬は吸収される仕組みだし、さもなければ鎖骨のあたりに簡単な注射が出来るような入り口が出来ている。

だから、Watch Meの勧告に従うのはあくまで自由意志なんだよね。生命主義の立場のイデオローグを支持するのはあくまで人間の自由意志。それは世界すべてを覆っているわけではないけれど、少なくとも高齢化社会が早く訪れた日本においてはそれなしでは生きていけなくなっている、という過渡期の技術。
原作だとわりと世界全体を覆い尽くしていて、かなり遠い未来という印象があったので、驚いた。
自由意志に基づいて、種々の選択は行われていて、Watch Meやメディケアはサポートしているにすぎないというのが奥ゆかしくてよかった。オーグも万能とは言えない。簡単に取り外しできるし、片目にだけ、ただ情報を開示するだけ。強制的に操るわけではない、というのがとても地続きだ。個人のパーソナリティを把握するのに静脈認証なところがとても良い。ナノマシンで遺伝子情報をうんたら~みたいなことも出来るはずなのだけれど、オーグはあくまで光線(赤外線かな?)で静脈を読みとって認証する。つまり個体の識別は個人の遺伝情報(どのように生まれたか)によってのみ行われるのではなくて、外部への表象(どんな静脈、どんな指先、どんな指紋、どんな風に組織を形作ったか)までを含めて個人なのだ。
ちなみに豆知識だけど、鎖骨がどうして鎖の骨なのかって、昔中国で奴隷をつなぐための鎖をつなげていたのが鎖骨なんだって、っていう話を連想するように、Watch Meのある場所がわざわざ鎖骨にしてあるのが隠喩的。
全体的にとても町並みが「地続きで普通」だった。建物とか壁とかの模様がめっちゃ内臓とか血管とか子宮を連想させるタイプのインテリアだったところがとても隠喩的で悪趣味。たぶん住んでいるヒト的には「まあこういうのが最近の流行??」みたいな感覚なんだろうけど2015年に生きている私たちにとってはすごく居心地の悪い悪趣味なデザイン。
一カ所残念だったのは、イタリア料理のレストランで、あの謎のしましま模様の床は、どう考えてもあのインテリアなら絨毯にすべきなのに、ナイフが落ちた時に「カチャーン!」って言うから堅い床材なのだなということになってしまうこと。あそこ絨毯にしたら普通に今のマルノウチスゴイタカイビルにありそうな、モダンなレストランだよ。カラーリングが悪趣味だけど、モノトーンにしたら在りそう。

大学の先生の部屋の話。なんで2070年代にフロッピーディスクが残ってるんだよw とは思ったけど、あの研究室はすげー見覚えがあるというか、すごく「現代と地続き」な感がする場所だった。紙の本をわざわざ印刷しておいてあると言うよりは、昔からやっていたことの延長線上であのポストにしがみついている先生という感じがした。なるべくしてこうなったというか。あの時代にしてはすごくレトロな場所だ。彼は意志や個性を持っている側の人間だと思う。ほどほどに嗜むということを知っている側の。

あと、あのシーンは前の、ミァハの親の家から引き続いて、雨の描き方がよかった。雨粒ばっかり見ていた。
トァンの捜査の仕方は独特、というか、被害者であるキアンの身辺を探るのではなくて、最初から犯人はミァハだと決めつけて動いているあたりが「オマエ本当にミァハしか見てないんだなw」という感じがしてほほえましかった。彼女は警察官には向いていない。

 

バグダットの話をする。
バグダッドは行ったことないけれど、マレーシアやインドネシアのようなイスラム系のASEAN国にはよく行くのでそれとの連想で話をする。
あのへんの国ってすごく貧富の差があって、きれいなところはすごくきれいだし、そうでないところはとても汚い。きれいなところの壮麗さ、特に何でだかは知らないけどやたらとガラス張りだったり、めちゃめちゃ高い塔みたいなビルだったりがある。だから、バグダットのメガネのお姉さんとトァンが話していたシーンのガラス張りの渡り廊下は非常に「あー、こういう場所、偉いヒトのビルでよくある」って感じだった。
そこからさらにトァンは旧市街の方に向かうわけだけれど、旧市街の市場の喧噪はすごくインド映画とかで見覚えがある感じだった。皿に盛られたカレーとサフランライスの感じがなんだかインドっぽかった。サフランライスじゃなくてクスクスかもしれないけど粒がながっぽそい感じだったから米なんじゃないかな。わかんない。あの盛りつけをすると、ご飯すげーべしょべしょになるけどいいのかな??みたいな感じはちょっとあった。
マレーシアで言うところの肉骨茶(バクテー)みたいな謎スープと一緒に日本語の書かれたメモが添えられているところ、すごく不思議な感じがした。バグダットで、なんで日本語なんだよ。いやまあ、メガネのお姉さんとの会話も日本語だったけど、あそこはまあ、何か自動翻訳装置がかませてあるのかもしれない。でも紙の上に日本語のメモだけは、視覚情報を絶対に裏切れない。あのシーンはオーグ抜きだから肉眼だ。

だからこそ、謎のインターポールとかじゃなく、身内の人間なのだとわかる。あんまり警戒してなかった。

 

お父さんの話はさっきしたからおいておいて、インターポールと殺し合う絨毯がいっぱいひらめいているところ。正直あそこはもっといっぱい動いてほしかった。たぶん予算なかったんだろうなあとは思うのだけれど、なんていうかな、せっかく風が吹いていて、銃撃戦で、ひらひらするものがたくさんあるシチュエーションだったのだから、もっと動かした方が華があったとは思う。ただまあ、メインとなるシーンではないからな……。限られたリソースの中で削るならまあ、あそこかなとは思う。

そういえば、時系列ちょっとさかのぼるけど、バグダッドついた後、トァンがしたことといえば、ウェブ会議しながらホテルにチェックインしたことっていうのがすごくなんか、それっぽくていい。そうなんだよな、手がかりもないしな。やることないからホテルにチェックインして荷物おいて観光、もとい情報収集か、みたいな、冒険者みたいなことをしている。

 

チェチェンの話をする。
まず、いいなと思ったのが四つ足の例のロボット。アメリカの軍で似たようなロボットを開発していたと思うんだけど、確かにアレ、山岳用だった気がする。兵士が蹴り飛ばしても起きあがれるっていうのを実験して、動物愛護精神の人たちに怒られていたっけか。
裸火で野営キャンプしていたけれど、あそこ危なくないのかなあとかはちょっと思ったりはした。煙がたって敵兵に気づかれたりとか。まあ一応調停官だから平気か。殺したらいろいろ国際問題になりそうだし。あと、火のすぐそばに円筒形の水筒みたいなのがあって、あれってなにに使うんだろうな……。
ロボットとお別れするときにトァンがちゃんと、頭なでて「ありがとう、きみはここまで(意訳)」みたいなところが良かった。トァンが女の子だったポイントだ。
ミァハと出会う遺跡の背景、すごく何かで見覚えがあって、思い出せないのがもどかしい。廃墟の写真集か何かで見たのかもしれないんだけど、壊れたトイレの便器が並んでいるところとか、破けたカーテンだとか、ベッドの骨組みだけ残っているところとか、たぶん雨漏りで水たまりが多いところだとか、壁が全体的に茶色いところとか、ガラスが飛び散りまくっているところだとか。
そういう、背景の細かいところが見えるのがアニメのいいところだと思った。

ミァハが最初なかなか姿を見せないところ、カメラが右行って左行って、みたいに視線揺らしてからようやくミァハの前進が見えるようになるところ、すごくミァハが幽霊っぽくて、原作を読んでいてすら、あいつは幽霊なんじゃないか、みたいな気持ちになった。

 少し話をそらしてミァハの話をする。
 ミァハの高音ボイスと、くるくる跳ねて踊っているところ、服のデザインなどとも合まってすごくイっちゃってる感がすばらしかったんだけど、ごめんな、おれは変なところで「あの変なサンダルで錆びだらけのベッドの枠踏んだら、痛そうだな」って思っていたことをここに白状します、ごめんなさい。
あと、そこまでの間で作画がうーん、MMDみたいだなーって思っていた余韻で、あの踊りはどこからどこまでが繰り返しモーションなのかなー、みたいなことを頭の片隅で考えていました。
全体的に映画版のミァハは、イカレたテロリストでしかなくて、カリスマ性がちょっと足りてなかった感はあります。でもおれはそっちの方が落ち着く。リアルだと思う。だって女子高生のまんまの青臭いイデオロギー引きずってるってイカレてなきゃやらねえよ。
なんていうかこの作品における「イデオロギー」って絶対的なものじゃなくてあくまでも相対的なもので(脳の中の様々な欲求が相互に戦っているように)、社会を動かすにはより大きな声で欲求を叫ばなければならないわけで、その意味でミァハは闘士なんだと思う。
そして彼女の最大の欲求は(たぶん、本当は調和とか個性とかどうでもよくて)、「今、自分がいるこの世界から出たい」ということで、ミァハもまた逃亡者であり、敗残者とも言えるような気がするんだよね、おれは。
どういうことかというと、ミァハはかつて少数民族として意志を持たず、個ではなく暮らしていた。けれどもロシア兵に誘拐されて苦痛の日々を送る中で、個として目覚めてしまった。そして日本に送られてきたわけで、彼女は常にその場から逃げ出しているのじゃないかと思う。チェチェンでの苦痛から逃げだし、また日本での暮らしも苦痛だったので、逃げ出すために調和に復讐するための自殺を行った。その後、改めてハーモニープログラムの被験者になって調和を一時的に体験した結果、たぶん、幸福な気持ちになった。ひょっとして、ロシアなんかいないような、同族と暮らしていた子供時代にもどったみたいに。だから大人になってからも世界から離脱し、個としての認識を棄却するために調和を目指した。
彼女が自分の個を主張した女子学生時代と、究極の調和を目指した大人時代で変節したように見えるのは、たぶん右翼のはじっこと左翼の端っこが一見すげーよく似てる、みたいなのと同じだと思う。結局、ミァハは世界を転覆させたいっていうか世界から逃げたいだけなんだよ。現状が嫌なだけのイヤイヤ期の子供なんだよ。でも子供にとっての反抗期って自我の目覚めだっていうからしょうがない。

そう、今書きながら思ったけど、全体的に「子供時代へのノスタルジー」みたいなのを強く感じた。シナリオ的に、女子高生時代の因縁うんぬんみたいなのが強い話ではあるんだけど、ラストシーンの、iPod Shuffleみたいなのがどーんって立っててヒキで音声だけで回想やるところの、三人で居られたあの時代、感が、ノスタルジーに弱い私のツボをガン押ししてくれた(ので泣いた、って話はさっきもしたね?)


4。そのほかよかったところ。
Voice onlyのミァハの最初の犯行声明のところの声が、男と女の声がいい感じに混ざっていて、その気持ち悪い混ざり方がすばらしかった。
この映画、日本の背景もそうだけど、全体的に「気持ち悪い」感じに作られていて、それってまさにミァハやトァンたちが感じている居心地の悪さなんだけど、そこの意図が伝わらないと、わからないと思う。

 

ここからちょっと二次創作的な妄想パート。
キアンが、平凡な生活を送りながらも、昔のことを思い出したりなどして夢でうなされたり、翌朝のニュースでちょっとだけトァンのことが報道されていたりして「あー、トァンすごいなあ、頑張ってるんだなあ、それに比べて私は……」みたいなことを考えて、「少しでも立派な人間になろう。ふたりにはかなわないし、追いつけないけど、千里の道も一歩から!」みたいなことを考えて、月に15時間の倫理ボランティアに参加していたりとかしたんだとしたらすごく泣けると思いました。

だってWHOの監察官ってめっちゃエリートだし、(報道されてないから放蕩も外からは見えないので)、まるで社会にめちゃめちゃ適応していて、この公共社会に自らの生命をも省みずに身を投じているかのように思えるじゃないですか。キアンにとっては、ミァハもトァンもふたりとも眩しかったらいいなあって思って涙が出てきました(自分の妄想で泣けるお手軽なあれ)

 

ここから二次創作的な妄想パート2
ETMLが最初と最後しか出てこないという映画の特性上、誰が書き手で誰が読み手なのかというのは最後まで曖昧なままだと思っていて、ひょっとしたらそれは原作とは違うのかもって思う。ETMLそのものへの説明もあんまりないので、ひょっとしたら原作とは違うと思って、自由に想像してもいいのかもしれない。原作だとばっちりトァンが書き手なのはおいておいて。

その前に、なんでハーモニーシステム起動後の人々が、ETMLで記録された文書を読む必要があるのかという話をしようと思う。
合理的に構成された社会において、なぜ娯楽や、他人の人生の記録文書を読み返すことが必要なのかという話。
映画版は原作に比べると(ナノマシンをはじめとして)技術的に未熟で、イデオロギー的にもまだWatch Meが全世界を支配しているわけではないという世界観なんだと思った。ということはヒトという種族の器質的に、連続して働くと疲れてしまう、というようなことは普通に(我々と地続きに!)起こりうることなのだと想像される。だからそれを一度リフレッシュさせるための道具として、ETMLで記述された人生はある。
ハーモニーシステム以後の世界においても(今、我々が休日に映画を見てリフレッシュしたみたいに。あるいは、夢というのは脳が記憶を整理してデフラグをする機能を持つとされているみたいに)、人々は何らかのリフレッシュを必要とする。ミァハが言ったように、ひとはデッドメディアと向き合う時だけ孤独になれる、みたいに、器質的な問題から娯楽や気晴らしとしてのETML、つまり擬似的に孤独になるためのメディアが必要になるのかもしれない。

でも個としての意識は失われているから、文章を読んで感情を呼び覚ますということが出来ない。だからETMLの感情タグによって脳のしかるべき化学物質の配合やら電気信号の具合やらを再現して、「ああ、この時、このひとは悲しいという感情だったんだな」というのを改めて追体験する。タグで記述されない感情がもしあるとしたら、それこそETMLの欠陥となるのだろう。そして、おそらくそれこそが、トァンがミァハを殺してでも守りたいものだったし、ミァハをあちらへ行かせたくない理由でもあったのだろう。
まあでもミァハはトァンのことなんか、全然見てなかったと思うけどね。

これらをふまえた上で、冒頭のETMLで示された、
「敗残者」とは誰なのか?
「脱走者」とは誰なのか?
そういうことを考えると、これは3人のどれでもあるんだと思う。
そもそも矛盾しているのだよ、この言葉は。
「敗けて残った」のか「抜けて逃げた」のとでは全然違う。残ったのか逃げたのかというところが全然違う。
さっき書いたような気がするけどもう一度書く。

学生時代にイチ抜けたのはミァハで、負けて残ったのはトァンとキアン。
その後、イタリアレストランで、キアンがトァンに差を付けて追い抜き、死の淵というミァハのそばに行くことができる。負けて残ったのはトァン。
最後に、ミァハとトァンが先に行き、読んでいるキアンが残る。

死んだはずのキアンがハーモニーシステム中でのみ生きられている、みたいなのがあるとおれはうれしくてしょうがないんだが(どういう仕組みなのかはわからないとしても)

あと個人的にはキアンは結婚して、子供もいたりなんかしてくれるとうれしいよねー。平凡なヤツが最後に残る話が好きだ。

 


5。よくなかったところ。
他の人がさんざん書いているだろうから手短に。
・予算なかったんだろうなー……。
・基本的にのっぺりしている。フィルタかけ忘れたかな??て感じに。
・基本的にセリフが長くて、画面を動かして単調じゃないように見せかけているけど、まあやっぱりたるい。イタリアレストランまでは耐えられたけど、インターポールあたりからつらくなってきた。
・百合が好きでレズが嫌いなひとはつらいだろうね。うん。それはもう性癖だからしょうがない。
・ミァハのカリスマに共感しちゃったヒトはつらいと思う。ミァハがおれらのポジションまで降りて来ちゃったから。

 

6。どうしようもない二次創作ネタのメモ。
・学生時代、ミァハによって「プライベートなこと」の手始めとしてオナニーの手ほどきをうけるトァンとキアンがそのままレズセックスにもつれこんだらいいとおもう(言うに事欠いてそれか)
・映画版ではプライベートって言葉がたまらなくエッチな言葉だという設定がなかったのをいいことに、映画版では、セックスはめっちゃオープンな出来事であるというねつ造設定を提唱したいと思う。にこにこしながら他人の愛に満ちたセックスを見守っている公共的な市民(代理:キアン)って楽しそうにグロテスクでいいですね!
・オーグで記録された、キアンに自殺される直前の、なんとなく弱った表情のトァンの表情をしみじみサディスティックに眺めながら、没収したボルドーを傾けるオスカーおばさんがいたらいいと思う。「この子も友達の前だとこんな顔をするのねえ(じゅるり)」みたいな(この際だから登場人物をみんなレズにしたくてしかたがない百合厨的想像力)

おわり。